ジャン・アントワーヌ・ヴァトー「ピエロ」
ジャン・アントワーヌ・ヴァトー「ピエロ」

 

「白のはなし|ヴァトーの「ピエロ」」

18世紀ロココ絵画の創始者といわれるジャン・アントワーヌ・ヴァトーの、「ピエロ」という絵をはじめて見たのは、画集かなにかの表紙だったと思う。
 
ルーヴル美術館でほんものの前に立つよりも先に、私はその画集のピエロの物憂げな瞳にまるごと吸い込まれてしまった。
 
眠たそうなまぶたの下、ふたつの瞳は夢想しているようでもあり、それでいて全てを見通しているようでもある。そのような相反する印象を受けるのは、左右の瞳にひとつずつ光る、白い点の効果だろうか。

とにかく、彼の目を見ると、吸い込まれて自分がどこかに行ってしまいそうで、泣きたくなるのだ。
 
その瞳から下に目をやると、赤みを帯びた鼻先、ひげ剃り跡がうすく残る口元、そして、フリルの襟のついた白い道化師の衣装が、滔々と視線を受けとめる。
 
彼の足元には、四人のイタリア喜劇の登場人物と、ロバがいる。
左側の黒装束の医師は不穏な笑みを浮かべてこちらをうかがい、ロバも、ピエロより鋭い眼光で、絵を見る者の方をまっすぐに見つめている。
 
一方で、右側の三人は、画面の外は眼中になく、ピエロの足元、または医師を乗せたロバに気を取られているようだ。
 
それぞれが何を含意しているか深読みしたくなる四人とロバの意味ありげな佇まいと、ただただそこに居る、という風情のピエロは、同じ画布上にありながら、異なる次元に存在しているようにも思える。

この多層性が、ヴァトーの絵に、単なる風俗画や洒脱なロココ絵画とは一線を画す深みを与えているのだろう。
 
視線をピエロに戻すと、その両目と、白いやわらかな衣装は、世界中のあらゆるものを、善悪の峻別も断罪も賞賛もせず、ただひたすらに見つめ、受けとめているようだ。
 
映画『天井桟敷の人々』のパントマイム役者、バティストが「すべてを見る」ため、夜の街を歩いたように、ヴァトーのピエロも画布の上で「すべてを見て」きたのだろうか。

彼の瞳の中の白も、衣装の白も、ただの無垢な白ではない。
 
善悪入り混じる世界の一切を見て、受けとめて、映し出しても、最後はやはり白であることしかできない白。

その白は、悲しみをまといながらも、現実世界と夢想のはざまで、やわらかく揺らめいている。
2020年、世界中がウイルスに翻弄され、これまで水面下に潜んでいた様々なものが白日のもとに晒された。

ヴァトーのピエロのまとう白は、そんな一年をも受けとめ、気持ちも新たに次の年へとそっと連れて行ってくれそうに思えるのだが、どうだろうか。
 

文と写真  御木里空

 

白のガラスドームフラワー

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